「つながること」をあきらめない

前回の投稿では、私が関わっているボランティア・グループが実施した《a hope of NAGASAKI 優しい人たち》上映会の実施報告と、そこから考える「つながりの大切さ」について書きました。

多様な人たちがつながりあう社会は、寛容で柔軟で、多くの人にとって住みやすい社会になると考えています。それだけ、情報や認識の共有のためにコミュニケーションを必要とします。それでも、私は多様性の中で生きることは、自分がマジョリティ側かマイノリティ側かに関わらず、結局は恩恵を受けられると考えています。前回の投稿の続きとして、今回はそんなお話をしたいと思います。

つながることで視野が広がる

私が「つながり」を大切にしたい理由は2つです。どちらもリスクヘッジに関連することです。1つは、前回の投稿で書いたように、多様なつながりがある社会は、困ったときや辛いときにもなんとかなりそうな気がします。どこかに自分の居場所を見つけやすくなります。学校や職場、家庭などで自分の居場所がなくても、さらに外の世界があることが分かれば、そことつながることで生きることの辛さが少し和らぐかもしれません。自分を受け入れる、そして自分が受け入れられる人や場所があることの安心を得られます。

そしてもう1つは、さまざまなリスクを想定し対処しやすくなるだけでなく、チャンスをつかみやすくなるということです。多様な視点や考え方を1人の人間として持つのは限りがあることが多いので、自分と異なる人たちとつながることで、自分が思いもつかなかった視点に気づかされたりします。自分と意見が違うからという理由で即座に排除せず、賛同できなくとも、倫理的な面などの致命的な問題がなければ「そういう考え方もあるのか」と「これも社会の一側面」と「観察」してみると、その人たちとの付き合い方も見えてくるかもしれません。互いの言動が理解できなくて悩んだり、メンドクサイと感じたりするかもしれませんが、異なる視点や考え方を持つ人たちが集まると、問題への解決方法も多様になると思います。

ページトップへ

多様性で「守備範囲」を拡げる

NPOのマネジメントとして考える場合、多様性の実現の方法には戦略的な部分も加味していく方法があります。市民活動で、ときに自分(たち)の正義感から他人の考えをこちらと同じものに変えようとして相手を責めるアプローチをとってかえって反発されてしまうことがありませんか? 考えが異なる人でも、話せる相手が必ずいます。その人からなぜ自分たちと同じように考えることは難しいのか、あるいは「どういう状況なら」もう少しよりそった考え方ができるのかなどを教えてもらえるチャンスと考えて、排除せずに活動に多様性をうまく取り入れてみてください。

多様性の視点について、たとえばマシュー・サイドの『多様性の科学』(アマゾンのサイトへのリンクです。)という本が参考になると思います。

「つながること」をあきらめない

つながることが強制されたり過度に美化されたりされても良くないとは思います。ただ、《a hope of NAGASAKI 優しい人たち》のなかで、松本和巳監督が指摘されたように、映画の中でインタビューされていた被爆者の方々がアメリカへの恨みがないと言っていたことの背景に、戦後、自分たちと交流したアメリカ人たちが明るく優しかったことが、戦時中に聞かされいた鬼畜米英という言葉との違いに気づくきっかけになったのかもしれません。

これは今の時代でも、ある国の人や民族、性別、障がい者、セクシャルマイノリティ、生活困窮者、若者、高齢者など、ある特定の属性の人たちが自分の周りで知り合いがいなかったり情報がなかったりすると、「あの人たちはこういう人だ」という固定観念(ステレオタイプ)がマスコミやネット、まわりの人たちなどから刷り込まれることがあります。ステレオタイプは必ずしも否定的なものばかりではないのですが、どうしても否定的なものや偏見につながることがあります。実際に接してみるとそのステレオタイプにあてはまらない人も多いことに気づきます。

一方で、そのステレオタイプを証明・補強するような情報や現象見つけて「やっぱり正しい」と結論づけようとする傾向も、人間にはあります。これを「確証バイアス」と言います。また、私たちはステレオタイプや偏見を消すことは難しいです。それでも、つながりを大切にしていれば、情報に踊らされるリスクも減りますし、多角的に多様な視点で考えられることで個人としても集団としても、さまざまな可能性が拡がると思います。ですので、私は「つながること」をあきらめず、リスク・マネジメントの一側面としても強調していきたいと考えています。

映画を観ながら、あらためて「つながりの大切さ」を実感したという、お話でした。NPOの活動に関わるなかで、社会をよりよくしたいと思って活動しているのに、逆に社会から孤立したり誤解されたりする組織や人に対して「もったいない」と思ってきました。とんがることや、社会の常識や大勢と異なることは、社会をよりよくする力の源にもなります。しかし、適切な表現が見つからないのですが、そのとんがる部分は中核で残しつつも、社会にひろめるときには「原液」のままではなく、まずは「希釈」して社会に浸透させる方法を考える方がよいのではないかと考えています。そうしないと、社会にひろめたいと考えていたのに、逆に同じような考えの人たちと集まって組織化してしまい、さらに濃度を高めてしまっている活動が見受けられます。何で、どのように希釈するところから始めたらよいかを考えるために、自分たちと必ずしも考え方が似ていない人たちとのチャンネルを閉じないことが、NPOの活動には求められます。

ページトップへ

(中原)