「あたりまえ」を疑う

今週は、8日が国際女性デー、10日は東京都平和の日、そして11日は東日本大震災から11年(「いのちの日」)と、今週は、平和や人権について考え、話し合う機会が多い週です。いずれもひとりひとりの生命や尊厳に直結する話であり、また社会や国家、世界のリスクにも関係する日です。また、今年の3月10日はとくにウクライナで多くの民間人が犠牲になっていることについてもつなげて考えざるを得ない日となりました。

「あたりまえ」という固定概念(ステレオタイプ)

私たちが普段「あたりまえ」と思っていることは、何一つあたりまえではありません。日常生活が、急にすべて変わってしまったり奪われてしまったりすること。家族や友人、同僚などには「いつでもまた会える」保障はないのです。「行ってきます」と言った人が「ただいま」と帰ってくること。また「行ってきます」と出て行った家が帰宅したときに「そこにある」こと。家族が迎えてくれること。これらは、すべては、さまざまなリスクをかいくぐってきた結果です。

同様に、「女だから」とか「男だから」とか、「長男だから」や「長女だから」、「障害がある」からとか「被災者だから」という概念も役割の固定(ステレオタイプ)化は、まわりの人がその人を分類し安心するためには役立つかもしれません。何一つ「わからない」ことに囲まれていたら、私たちはすべてを不安に感じてしまいます。しかし、同質性を強調・強要しすぎてステレオタイプからはみ出ることに生きにくさを個人に強いることになります。

ある考え方や言動を「あたりまえ」、あるいは逆に「あたりまえからずれる信じられないこと」ととらえて思考を止めてしまったり、選択肢を切り捨てたりすることは、リスク・マネジメント上でもリスクを把握したり、対処法を考えたりするうえで、過ちをおかしかねません。

「あたりまえ」という固定概念(ステレオタイプ)には、さまざまなリスクが潜んでいるのです。

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意味がなくても「効率」が悪くてもいい――それが、社会

私たちは、自分が安心するため、あるいは多数派に属する人が「効率よく」ものごとをすすめるためにステレオタイプを他人に押しつけてしまうことがあります。逆に、自分が他人と違うことに不安になったりすることがあります。この状況は、同じコインの裏表だと思います。分からないことや、誰かと分かり合えないことがある世の中であることを前提に、いろいろな人が存在する社会に私たちは生きています。

また「世の中のまともな人間というものは」というステレオタイプに基づいて、「社会で役割がない、“機能できない”(←好きな言葉ではありません)人は価値がない」という、自分を、あるいは誰かを切り捨ててしまうのは、結局、生きづらい社会を作っていることになると思います。

私たちは、もっと、解き放たれていいのでは、ないでしょうか。社会は、一見すると何の意味があるか分からないことだったり、非効率だったりすることがあることで生きやすくなっていると、私は考えます。社会の緩衝材のような役割と言いましょうか。私自身も自己嫌悪に陥って「自分がやってきたことはムダだった!」と落ち込み、周りを心配させてしまうことがあるので、バカボンのパパのように「これでいいのだ」あるいは「これでもいいのだ」と唱えてみたりします。

自分と人が違うこと。人が自分と違うこと。明日が来ることはあたりまえではないこと。「女(男)だからこういう人生を歩まないといけない」とか「〇〇だからこうふるまわないといけない」ということもないこと。脈絡はなく聞こえるかもしれないのですが、私のなかでは、「あたりまえ」は「あたりまえではない」点でつながっています。

多様な人々の異質性を楽しみ、感謝できる社会は、自分では考えもつかなかったことを可能にしてくれるのではないか。このことは、NPOリスク・マネジメント・オフィスが目指す社会のあり方の一つです。

ということで「あたりまえ」なことはないことを考える、私にとってはそんな1週間でした。

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(中原)