1月27日:ホロコースト犠牲者を想起する国際デー

Auschwitz-Birkenau

1月27日は、国連が定めた「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」です。第二次大戦中にナチス政権にあったドイツをはじめ、ドイツ軍に侵攻、占領されたヨーロッパ各国で、ユダヤ人やシンティ族、ロマ族、障がい者、政治犯など(一説には600万人)が犠牲となりました。

アンネ・フランク

ホロコーストの犠牲になった有名な1人として、アンネ・フランクがいます。彼女は1929年にドイツ・フランクフルトで生まれました。ヒトラー政権下のユダヤ人への迫害を逃れるためにオランダ・アムステルダムへと移りました。そのオランダをドイツが侵攻します。いまからちょうど80年前の1942年、ユダヤ人を労働キャンプへ送る召集がかかりますが、アンネの家族は隠れ家に身をひそめることにしました。1944年にアンネたち一家や一緒に潜んでいたユダヤ人は連行され、最終的にアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に収容されます。アンネと姉のマルゴットはさらにベルゲン・ベルゼン強制収容所へと移送され、発疹チフスにかかりマルゴット、そしてその後にアンネが命を落とします。1945年2月のことです。アンネとマルゴットの母もアウシュビッツで亡くなりましたが、父のオットーは助かりました。戦後、アンネが書き綴っていた毎日の生活や気持ちは出版され、『アンネの日記』として日本語にも翻訳されました。。

アンネの短すぎる生涯や、アムステルダムの隠れ家、そして反ユダヤ主義だけではなく偏見や差別などについて、アンネ・フランクの家のサイト(英語表記)でご覧いただけます。ここで簡単にまとめたアンネの生涯については、日本語でも紹介されています。

強制収容所など

コロナ禍で海外に行けなくなってしまいましたが、2020年か2021年に行きたいと思っていた国の一つがポーランドでした。行きたかった一番の理由は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所への訪問です。人々を分断し、決して過激な思想を持っていない人にさえも個人的に何の関係もない人に対して憎しみや見下す気持ちを植え付けてしまうだけでなく、特定の集団に属する人たちを強制労働所に送り殺してしまう「仕組み」の運用を支えた人たちの多くは「普通の人々」でもあったと思います。普段は「人々の分断はさせない!差別をなくしたい!」と言っている私も、特定の集団へのマイナスの感情を口にするかもしれません。あるいは逆に、強制収容所へ送られる立場になるかもしれません。ほんの数年ですべてが変わってしまうことを歴史から学ぶためにも、アウシュビッツに行きたい気持ちがだんだん強くなっていっていたのでした。

私は、別の強制収容所を訪問したことがあります。ドイツのブッヘンバルト強制収容所というところです。ユダヤ人だけでなく、シンティ族やロマ族、政治犯なども収容されていました。人体実験を行なっていた「手術室」や、焼却炉が並ぶ部屋など、当時の部屋に入ったときに、いたたまれない気持ちになりました。案内してくださった方からは「銃殺のときにはクラシック音楽を大音量で流していた」という話をうかがいました。

アンネ・フランクの家にも行ったことがあります。入口から見ると狭い感じがした建物でしたが、中に入るとやはりせまい階段を上ったり下りたりしながら、思ったより多くの部屋があることが分かり、驚きました。ただし、小さい部屋でしたし、窓がない部屋がほとんどでした。

アンネたちがそこに隠れていることを誰が当局に告げたのかについて、長年にわたりさまざまな議論や調査がなされてきました。先日、アメリカFBIが6年の歳月をかけて調査し、当時アムステルダム在住だったユダヤ人が自分の家族を守るために密告した可能性が高いとして、その人物を特定したというネット記事がありました。この調査結果に間違いがなければ、アムステルダムのユダヤ人コミュニティが戦争、そしてナチスドイツによって分断されてしまったことになります。

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ホロコーストは差別主義者のみによるもの?

私たちは誰でも、自分の経験に基づくかどうかにかかわらず、特定の国の人や民族その他の集団に対して「あの人たちはこういう人たちだ」と決めつけたり偏見を抱いたり、憎悪とまではいかなくても「好きになれない」感情をいだくことあります。嫌な経験をすると、その相手個人に対してマイナスの感情をいだくだけではなく「あの人たちはこうだから、嫌だ」と、その人が属する集団全体を判断してしまうことがあります。ホロコーストを一例とする、差別や差別の煽動、ヘイトや大量殺戮は、必ずしも差別主義者だけが起こすものではありません。元来まじめな人ゆえに、制度や国からの「指示」を守ろうと、積極的に関わってしまうこともあります。それだけではなく、自分が迫害される側にもなりうることも認識しながら、平和の脆さへも思いをはせたいと思います。

余談ですが「アンネのバラ」をご存知ですか?アンネはバラの花が好きだったそうで、新種のバラが「アンネ・フランクの形見」と名づけられ、オットー氏に贈られました。私の以前の職場には、この「アンネのバラ」が植えられていました。オレンジとピンクがかった、可憐な色合いの花を、久しぶりに思い出しました。海外への渡航はしばらく無理そうなので、もう少し今のコロナ禍が落ち着いたら広島に行き、広島市の広島平和記念資料館とともに同じ広島県内にあるホロコースト記念館にも足を運びたくなりました。そこで、タイミングが合えば、アンネのバラが咲いているのが見られるかもしれません。

(中原)

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