映画「モーリタニアン 黒塗りの記録」について
「モーリタニアン 黒塗りの記録」という映画を観てきました。
2001年9月11日にアメリカで発生した同時多発テロの首謀者の一人と疑われ、キューバのグアンタナモ湾にあるアメリカ海軍基地内の収容所に移送され、さまざまな拷問や人間の尊厳をうちくだく待遇を受けたモハメドゥ・ウルド・スラヒ氏の手記をもとにした映画です。原作は日本語にも翻訳されています。
あらすじ(ネタバレなし)
スラヒ氏の拘束は不当だと、プロボノ(社会貢献のために専門知識などを活かした活動)で釈放を求める活動を始めたナンシー・ホランダー弁護士はグアンタナモを訪問し、彼の釈放を支援するとともに国などを相手に訴訟することをスラヒ氏に提案。ホランダー弁護士が国に情報開示を請求すると、大量に届いた資料のほとんどが黒塗りされていました。一方、スラヒ氏をテロ関与者の死刑判決第一号にしようと米軍側はスチュアート大佐が担当することになります。確実にスラヒ氏を有罪にするために情報を集めていたスチュアート大佐も、いろいろと疑問が生じてくる・・・という感じで、映画が展開していきます。
グアンタナモの収容所と聞くと、イラクのアブグレイブ刑務所も同時に思い出されます。アブグレイブではイラク戦争の捕虜への米軍兵士の虐待や拷問が問題視されました。袋をかぶされ、両手をひろげて箱の上に立っている捕虜の写真や、折り重なっている捕虜の後ろで笑って記念写真を撮っている兵士の写真など、衝撃を受けました。
今回の映画でも、スラヒ氏への虐待や拷問の様子を描いていて、その場を立ち去りたくなるほどの場面もありました。しかしホランダー弁護士の粘り強さやスチュアート大佐の軍人、キリスト教信者そして一人の人間として自分のなかに存在するさまざまな「正義」の間での葛藤、なによりスラヒ氏の精神力(という一言では言い表せないほどの、とてつもない強さ)などに、映画に吸い込まれていきました。
“In the Wrong Place at the Wrong Time”
「虐待を命じられて実行した兵士のなかには、本当は家族や友だち思いで、まじめだったり明るく陽気だったりする人たちも多いのではないかな」とも思いました。組織の命令に従って他人を傷つける人がいる一方、その傷つける行為である拷問や脅迫、虐待などに耐えかねて「テロに関与した」というウソの自白をしたりもします。「私たちはどちらの立場にもなりうる」ことを忘れてはいけないと思います。ここまでの虐待や拷問はないにしても、日本でも誤認逮捕もありえます。「いた場所やタイミングが悪かった」(英語で”in the wrong place at the wrong time”と表現したりします)ために疑われるということがあります。
また、上司や先輩などの指示だと、誰かを不利な状況におくことでも従ってしまうという有名な実験(ミルグラム実験、またはアイヒマン実験とも呼ばれています)もあります。詳細はここでは割愛しますが、これは、服従に関する実験です。自分が「流す」電流で相手が苦しんでいるのを見て流すのをやめようとしても、権威のある人の指示があると従うことを検証する、ミルグラム博士の実験です。(実際には電流は流れておらず、流されたはずの人は演技をしているだけです。)
アイヒマンもグアンタナモでスラヒ氏をはじめとして拘留された人たちに拷問・虐待した人たちも「わたし」と大して変わらない人たちだとすると、自分も「いた場所やタイミングが悪かった」のではないかと、思ってしまいます。私が映画の拷問などのシーンを見て「立ち去りたい」気持ちになったのは、その暴力的な描写のせいもありますが、「そのどちら側にも私がなりえた」ことへの恐怖や嫌悪感もあったのかもしれません。
この映画は、決して「過去の話」でも「自分に関係のない話」でもない
同時多発テロから今年で20年経ちました。グアンタナモの収容所は、オバマ大統領も早期に閉鎖する意向だと言っていましたが、閉鎖には至っていません。 映画を観ても、決して過去の話でも、自分には関係のない遠い国の話でもないと思いました。
恐怖や憎しみが支配する環境では、対立するのは異なる正義や主義ではなく、恐怖や憎しみどうしになってしまい、後戻りできなくなってしまいます。条件さえそろってしまえば、自分にもおこりうる話として、ぐっと重く心にのしかかる話です。この映画は「あなたにとって、どの立場も他人ごとではない」事実をつきつけてくるとともに「私たちは、あなたは、何ができるのか」を問いかけている気がします。どうしたらこの連鎖は止められるのかと、あらためて平和について考えています。対話プログラムなど、今までにもさまざまな取り組みがなされてきました。ほかに、何ができるのでしょう。何が、憎しみの連鎖を断ちきることができるのでしょう。
(中原)